右に行きすぎたら左に戻る/根源的欲求






Eternal sunshine of the spotless mind






日頃から使うものにはメンテナンスが必要だった。
それは自らの身体や精神においてもそうであった。

日々、観察して様子を確認するのが、面倒だけど大事だった。
そうしないとどっちに偏ってるのかも分からなくなったりする。

どうして、自分のことなのに分からなくなっちゃうのでしょうね。
偏ってるときほど「自分のことはよく分かってる」なんて思う。










最近は、未来の方法で立ち上がっている人が
本当にたくさんいて、すごいと単純に思う。

そして焦る!





お金なくなるんじゃないか。

モノガミー無くなるんじゃないか。

そのうち文明崩壊するかもな。
 
食べるものや体質が思い切り変わるかも。


音を立てて崩れていくのが分かるようで
ああ、時間が本当に迫ってきた
と感じております。















やめたほうがいいけど、やめられない。
やったほうがいいのは知ってるけど、やらない。
めんどくさくてやる気が起きない、なんだか億劫だ。


そういうのは「よくある」とは言っても
「なぜそう感じるのか?」
「なぜやらなきゃいけないのか?」
ということが気になって仕方なくなる。


そこが解決しないのに「そういうものだから」
という理由で粛々とこなしたり出来ない。

非生産性の極みだと思う。
でも気にならないですか?





やらなきゃいけないからしょうがなくやる、
ということを人生の中から可能なだけ減らしたい。
そう思った分だけ何かを嫌いになり、自分が腐りそうだから。

「嫌なことは全部やらない」という手もあるけど
それだと嫌なものは嫌なままなので解決になってない。

嫌だと思うことすらなくなる、というのが理想。



でも、そういう話ってもはや顕在意識の部分を越えていて
「どう?」とか聞いたって答えが出るような類のものではない。
えーと、元からそういう性格なんだろうね!で、おしまい。




でも私はもっと根源的に、なにかあるんじゃないかと。
ひとりの奥底は宇宙全体と繋がっていて、
人類共通の何かを持っているはずと、信じているので。

だから、私が問題の糸口を見つけることで
目に見えないところで何かが変わるんじゃないかと

そういう風に期待して、いつも考え事がやめられない。




まあ、そういうと良い感じに聞こえるけど
単に暇人なのかもしれない。










  



「怠惰」というのは異常ではないかしら、ということ。



やる気や活力は、生命力に近いところがあって
本来生きるために備わっているものなのかなと思う。
そういうものが無くなるというのは、本当は異常な状態。


でも、今はそれがどっちかというと当たり前。よくあること。





人間は不自由を感じたときに、創意工夫する。
そこから抜け出し、より向上しようと動く。
やる気や活力というのはそういうときに生まれる。



生きる力に直接繋がる創意工夫がめんどくさい、
ということの先にあるのは
「生きていくこと自体が億劫」という状態に繋がる。




なんでそうなっちゃうのかというと

自分の活力と引き換えに
便利さを買っているからだと思った。


それに慣れすぎると、何もしないことが当然になるので
知らず知らずのうちに「自分の力では出来ない」ということを
刷り込んでいることになっているんだと思う。



もちろん、人は助け合って生きていくしかないのだけど
今はきっと何もかもが過剰なんだと思う。

資本主義がぐんぐん伸びていって、お金を生みたいがために
自分でできることまで全てサービスにして利潤を生むようにした。

でもその裏で、生命力を奪われて疲れ果てているのかも。



基本的に自分のことは自分でやればいいのだし、
人のことは人がやるものだと思う。

おせっかい社会なのかもしれない。
しかも、相手の為じゃなくて利益がほしいがために
他人の庭にまで手を入れ始めた、そんな風にも見える。




本来、人間というのは根源的に
もっと不自由な中で知恵を絞って
自分の力で、自分の暮らしを作っていきたい
と思っているんじゃないのかなと思う。




持っているもので何とかしたときの情熱。

奥から沸き上がってくるような歓びにつながる活力。









やる気がないのは、生きる力が減っているからではないのか。

それは生活の仕方から来るものであり、
便利さを買うことでお金と命も減ってるんじゃないのか。



見えないところで、宇宙かなり動いてる。





 大好きな映画ふたたび。
チャーリー・カウフマンのおかしな映画が好き。
ジム・キャリーがキュートだ〜




人気の投稿