絵について外に出すことについて







人と話していて、ストレスが全くない(=心の中と外の自分にギャップが生まれない)
 のは、本当に久々のことであったのでしみじみ感動してしまった。
直前に髪を切ってもらっていて余計な憑き物が取れていたからかもな。
サンドイッチを食べて満たされていたからかもな。

このあいだから頭の中に何度も「センス・オブ・ワンダー」という文字が浮かんでいて、何のことやらと思って放っておいていた。でもその日、まず美容室で出された雑誌に出てきて、さらにその後寄ったイベントには「センス・オブ・ワンダー」という本が出ていた。(それはレイチェル・カーソンの本です)

買いました。





















あるアーティスト(イラストレーター)の本を立ち読みしたら
「普通になりたくない」
と書いてあって、わかるようなわからないような。
 (正確には「30代で普通のイラストレーターになりたくない」と仰っていた)

普通がなんなのか、やっぱりみんな考えるものだろうか。



絵を描く上で一番悩んでしまうのは、これが世の中にとって必要だろうかということ。
お仕事の依頼は求めてくださる方が目の前にいるので「この人のために頑張ろう」と、まずは思うことができる。(だからそういう風に思えない相手だと苦痛になる)

インスタグラムでやっているような個人的な活動だと、いったい何のためにやったらいいんだか分からなくて時々すごく悲しくなる。迷いなく思い切り活動の幅を広げている人を見て羨ましく思ったりもするものだ。(自分スケール小さいな…とも感じるが)

ネットで見かける人や、流行っている絵を見て、正直何が良いんだろう?と思うものもある。評価っていうのは本当に謎が多くて千差万別なので、そこを基準にすると痛い目にあいそうだなと思う。

人に見ていただくのは大事なことだけど、それを数にしてカウントすると本当にただのゲームみたいになってしまう。
数値化できないものを扱っているわけだけど、世に出るときはひとつの形として数で表現されることはあるので(お金がいい例ですね)、そこの部分は切り分けて考えないと、とてもつらいだろうと思う。

作ってる人は自分の中にものごとを評価する軸を持っていないと、やっていけないんじゃなかろうか。それは、つまり価値観ということになるのかな。

ヒットしているものがあって、それが自分の好みとは違くても、何がウケたのか考えるのはとても身になりそうな気がする。色んなことがあるけれど、うまく自分の栄養にできるに越したことない。

私は無視されたら傷つくし、憎まれたら悲しいので、なるべくそういうことにはなりたくないのだが、でも誰がどうであろうと続けていかなくてはいけないこともあるんだなと知っている。そのことは最近わかったんだけど、こういうことがわかるのは幸福なことだと思う。









作品は、見た人の内面に反応を起こすことで初めて完成する。
半分は作者が作った実態で、もう半分は観る人の心が持ってる。 

食べものと似ていると思う。
だから、胃もたれを起こさせたり、味だけ美味しくした中身の無いものを、作ってはならないんじゃないかと思って、責任を感じてしまう。その人の一部になり得ると考えるならば。

「大げさ〜!」と言われちゃうともうそれで話が終わっちゃうんだけど、でも、世の中に、あってもなくてもいいようなものや、人を傷つける表現や、自分を満たしたいあまりにぶつけられる表現が、溢れすぎていて、もう少し刃を研いでから調理にかかってくださいと言いたくなる。

大きく広い目で見れば、その溢れかえる物自体が時代そのもので、そういう意味では興味深くもあるんだけど、私は時代を生きる当事者なので実感として苦痛を感じる時があるのはしょうがない。

それだけ言ってお前の絵がどれだけ良いんじゃ!と、我が身を振り返ると、道半ばです…エヘヘ…って感じで偉そうにすみません。この前も太田記念美術館で水野年方の浮世絵を見て卒倒しそうになったところです。


話がズレますが、先人たちの描いた絵や、現代の優れた絵を見ると、何かを残すということについて励まされるし、ヒントもいっぱい貰えます。沢山のことをこちらに語りかけてきてくれます。決してどの時代も生きやすいとはいえない中で描き続けた作者や、価値を感じた人々によって受け継がれ保存されたきた事実に「ありがとうございます」以上の言葉が全く見当たりません。

ひとりで作って完成!終わり!というものではないというか、脈々とした体系を感じてジーンとした、そんな表参道からの帰り道でした。




黙々と生きるのでした。






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