ホームに帰りたい/何を選んできたか




 

NHKのドキュメント72時間で
沖縄のウチナンチュ大会の回を見た。

世界各国に移民として暮らす沖縄県民たちが
秋に、7000人近く里帰りしてくるという大会だった。
ハワイ、ブラジル、ペルー、など様々なところから
沖縄出身者とその2世3世も帰ってくる。

 そういう事実があること自体、全然知らなかった。




 その中でペルーから来たおばさんが会ったことのない親戚を探していた。
地元で行われる集まりに行き、同じ苗字の人に声をかけるも
結局、親戚の人には会うことはできなかった。

集まりの後、取材班のところにタタ〜ッとかけてきて
小花柄の巾着袋いっぱいに入った、ペルーからのお土産を出した。

「親戚に会えたらあげようと思ってたけど、あなた達わたしの親戚になったね」
とニコニコ言いながら取材スタッフみんなにお土産を手渡していた。 

「私のこと忘れないで」 と。



これを見たとき「うそでしょ」と思ってすごく泣いた。



出てくる人は、みんな沖縄を心からホームだと思っていて
家族のつながりというものを心から信じていたように見えた。
一度も来たことがなくても「帰ってくる」と言うのだという。
知らない人でも「おかえりなさい」と言って出迎える。


沖縄をルーツとしながらも、
世界中に緩やかに優しく繋がっていく人々の姿はまるで未来人のようだった。
血縁だけを大事にするとか、そういうことが家族なのではなかった。



取材スタッフは沖縄の人でも何でもない。
たまたま出会っただけだし、何なら仕事でやってる。
自分はわざわざ会いに来て、親戚に会えなかった。
だから悲しい顔をすると思ったのに、
めちゃめちゃニコニコしながら
「あなたは私の家族」
と言った。



家族という密なコミュニティに
息苦しいしがらみのイメージを持っていた私には
それは、何だか信じられない光景だった。




【 私の場所はここからここまで。これ以上は干渉し合わない。】


都会生まれ都会育ちの私は、
自分を守り人と傷付け合わないためには
 こういう考えが必要なのだと思って身に付けていた。
 でも、本当はとても孤独感を感じる。

 天涯孤独じゃなくても、
誰かと身体でつながっても、
言葉でつながっても、
とてもとても寂しいままだろう。



私はホームが欲しい。
私もずっと家族を探している。




 平和を信じ願い歌っていたブラジルの青年が信じられないくらい美しかった。











「なぜ評価されたかが分かってないなんてお話にならない」
みたいなことを、昔えらい先生に言われたことがあった。

私は一生懸命考えたつもりでも、やはり情動でものを作っていたので
なぜそれを作ったのか、作り終わっても全然分かっていなかった。
とりあえず出し切って呆けていたような気がする。

その先生の言葉の意味するところはいまだに分かってない。 
もっとコンセプチュアルになれ、と言われていたのだろうか。
誰かを唸らせたくてやっていたわけじゃない。 
強いて言えば「こうするしかなかった」くらいだった。

人を納得させて、かつ自分も納得させるのは
学生時代に取り組むには難儀だったように思い起こされる。


なぜ作るのかを考えるのは、実際に作るよりも難しいかもしれない。








アーティストでも何でも、表現活動する人において
作りたいものが次々と浮かんでくるタイプではない人もいる。
私はそう。作りたいものは特に思い浮かばない。
それは、やる気がないようにしか見えない。
実際は作る気がないのとはまた違うけど、
そんなこと他人にはどうでもいいことだろう。


頭の中ではいつも身の周りで感じたことの
意味や意義について考え続けている。
たぶん作ることよりも、考えるのが好きなんだと思う。 
答えも出なければ頭も良くならないし何も解決しないけど。
 何が正義なのかを決めるために生きているわけではない。








「絵を描ける自分たちは特別な人間だ」

かつて私にそう言った人がいて、
そのとき激しい違和感を覚えた。

その人は「誇りと自信を持ってやろう」くらいの意味で
言ったのだと思うけど私が引っかかったのは違うところだった。


絵を描くことは全く特別なことではなくて
考えているのも、ご飯を作るのも、歩くのも、ヨガするのも
服を選ぶのも、人と話すのも、花に水をあげるのも。
何なら、人を嫌悪するのも、トイレで用をたすのも。
全部同じである。


それらが同列のものとして私の中にはあるのに
なぜどれかひとつだけに特別な価値があるということになるのか。
素晴らしいものって、もっと些細でよく見えないものだと思う。
行為そのものより、行為のもっと奥にあるものが特別だ。


人は価値をつけたがるものだし
それ自体も間違ったことではない。
それを気にするかどうかも、私の自由ではある。







絵を描くほどに強く感じることがあって、
それは何を描きたいのかが一番大事だということだった。


技術の向上は趣味みたいなもので
やりたいからやること。必要だと思うからやること。
そこに優劣はやっぱり無い。付けたければ付ければいいけど。
誰にどれくらい注目されるかも、それは結果として起こること。
一喜一憂するのも普通のこと。それはそれで全然いい。




どんなことも特別じゃなくて
そして同時に特別なのだとしたら


” 何を選んできたか=何を愛してきたか ”


ということが、その人の個性であり能力ではないか。


もし全ての人間の能力値が同じだとしたら
あとは、どんなタイミングで、どんなものを選んできて、
それらがどんなふうに自分の中で混ざりあって
自分をかたち作ってきたかが
「違い」というものなんじゃないだろうか。







私は愛してないものは描かない。
愛してない事柄について歌ったりしない。

自分のことが知りたくてしょうがないときは
愛してるものを隅から隅まで全部、思い起こして
自分が何で出来ているかを知る。

自分が愛しているものの中に、必ず大事なヒントが隠れている。
そして、それをなぜ愛しているか、まで深められたら
私たちは人生と仲良くやっていける気がする。

私たちは何かを愛しながら生きていくので
そういう意味合いで、愛がすべてなんだろうと思う。







私に、絵を描けることが特別だと言ったのは
きっと自信がないからそういう風に言ったのかも。
自分の価値を確かめたくて自分に言い聞かせたのだと思う。
「自分のことをもっと良いと思いたい」
そんな悲痛なほどの願いは、あまりにも人間くさくて、
すさまじくちっぽけで、最高に人間らしくて
本当に愛おしい生き物だなって。







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