生きているの意味






時々なんで死んでしまうのに生きてゆかなくてはならないのか
心底不思議でしょうがないとおもう瞬間がある。

すべてが無に還るのに、いずれ忘れられるのに、何も残らないのに、
本当に本当に生きてるのって意味があるのか?




そういうことをいちいち疑問に感じていられないくらい
みんな毎日忙しく動き回っているわけで、
私は暇を見つけてはこんなこと考えているくらいだから
ある意味すごく脳天気だしすごい馬鹿なのかもしれない。
 世のため人のために一生懸命日々を生きている人々に
足を向けて寝るのをためらうくらいしょうもない疑問かも。

何はともあれ生きていくのだし、その中で薄っすらと「あれ、これかな?」
という実感を得られるかもしれないのが生きることのひとつ。





でも生きることにそう簡単に意味付けをしたくない気持ちがある。
私は怠け者なので答えがわかってしまったら
それに準じて機械みたいに生き始めてしまう気がする。
イメージを固定したり形骸化していくことは怖い。
よく観察していないと楽な方向へ逃げようとする哀しい性をもつ。


たとえば自分が「若い」と思っていて実際若い時に
その「若い」というイメージに飛びついてしまい
そこから連想される振る舞いや見た目をパターン化して
「とりあえずこうしておけば納得してもらえる」みたいに
自分が自分であることの表現をやめてしまうことだ。 

私は実際こういうことをしてきたし、
人をとりあえず納得させることを重視してきた。
それどころか、分かりやすく振る舞わない他人に対して
怒りさえ感じていた。すごいなおい。

他人に自分のことを説明するのは面倒だし、
そのたびに流れを中断したりして場を乱すのも嫌だったし
そもそも相手が分かってくれない可能性も充分にある。
だからスムーズさの方を優先してきた。

結果、得られたものは「自分がどうしたいか分からない」だった。



私はどこに?
私の中にすらいないのにどこに生きているのか。








みんなが納得してくれないなら
みんなが見てくれないなら
みんなが分かってくれないなら
みんなが忘れてしまうなら
やってもしょうがない。

愛してくれないなら
生きていてもしょうがない。


他人が納得してくれる人生を送りたいなら
他人がそう思ってくれるだけの人生は送れるかも。


でも私たちは本当は自分の中に何かを残したいのではないのか。
生きている意義や意味を見出したいのは、自分のためではないのか。

人に自分の在り方を表明していく。
 それは面倒くさいことだが、
それこそが主体性を持つことで、自分そのものであり
生きていくことなのではないのかしら。







人にも分かってもらえるよう誠意を尽くしたり
伝わるようにしていくことは尊いことであるし
「分かってもらえない人はいらない」
みたいな切り捨てを勧めるのでもない。

ただ、人に合わせるなり何なりする前に
自分に向けて尽くす誠意のほうがもっと重要だろう。
とくに、自分がどうしたいかすら分からなくなった時とかは。






寝て起きるのを数回くり返したら忘れちゃうのかなあ





🌙




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